トップページへ
ギャラリースペースゆう
いよの風通信 エッセイ
お問合せ
写真の愉しみ Vol.6
 「物質的恍惚」

 のっけから私事で恐縮ですが、私はこの20年来渓流釣りを趣味としている。毎年3月から9月までの間、暇を見つけては週末、俄か漁師となりあっちの川こっちの谷とほっつき歩いている。漁師といっても魚を持ち帰ることはほとんどなく、ひたすら川を歩き、魚をかけることだけを楽しみにしている落ちこぼれ漁師である。

 ところで毎週のように川へ足を運んでいると、おのずと同じ川に何回、何十回と行くことになる。つまり馴染みの川ができあがるのである。そこはもちろん、歩きなれている川なのでどこにどんな岩があり、どんな樹木が生えていてその先を曲がるとどんな景色になっているのか良く知っている。いや、良く知っているつもりだ。

 ところが時々、ごく稀に、その見慣れている物や風景が突然違って見えることがある。
 いつも大きな魚のついている深瀬の上に突き出した岩が、ふとした拍子で得体の知れない動物の頭部に見えてきたり、川をふさぐように転がっている大きな岩が突然周りの世界から隔絶され、時間の流れを押しとどめてうずくまっているように思えるときがある。それだけではない、広い川原の傍に生えているヒメシャラの褐色の木肌がとつぜん艶やかな大蛇の胴体のように見え、その木全体が動き出してくるように感じることもある。錯覚だ、気の迷いだなどと笑わないで欲しい。それはその時の気象条件や光の具合、こちらの心理状態などにもよるのかもしれない。しかしそのように感じることは、確かにある。あなたにはそういう経験は無いのだろうか。例えば夕暮れの公園の遊具、丸まった猫の背中、深夜の街灯の下の自動販売機‥‥。
 いたる時、いたる所でモノたちは変身しようとしている。人間によって一方的に名づけられ意味を付加された存在から原初のモノ自体に帰ろうと身構えている。イメージも認識も言語的なものを基盤にし、それを介さずには不可能であるとするなら、それらのモノは言語からすり抜け、ずれ、はずれ、隠れようとしている。脱走である。このモノたちの密かな企みは人を不安にする。サルトルの「嘔吐」の主人公ロカンタンの不安だ。

 あー、また前置きが長くなっている。ここは本来写真のことを書くページなのだ。でももう少しガマンしてください。もうひとつ気になることを書いておかなければ先に進めないのです。私は何事にも徹底を旨としている。80%ほどの徹底を。

 もう一つの気になること、それは「モノトハ何ゾヤ」ということ。
 モノの定義は易しいようで、じつは難しい。かりにモノを次のように定義してみよう。
 眼で見えるもの、質量をもったもの、触れることができるもの等々。しかしこれらの定義では充分でないことは明らかだ。素粒子はみることができないし、夢の中のものは質量を持たない。人間の五感で捕らえきれないものもたくさんある。そこで私は次のように考えた。「モノトハ存在ノ持続デアル」。ふーむ、これならうまくいきそうだ。人間の五感で感知できる存在もあれば、できない存在もある。それらをひっくるめて「存在ノ持続」をモノの必要条件とすれば、モノに肉迫できそうである。(ただし、「存在ノ持続ハモノデアル」とは限らない。つまり十分条件ではない。) 
 そこで次に問題となるのは“持続”という言葉。持続とは広辞苑によると「たもちつづけること。中絶しないで長く続くこと。」とある。ここで肝心なのは“持続”には“時間”が関わっているということ。つまり一定の時間が必要だということが分かる。持続とは即ち時の流れである。

 ここで面白いことに気づく。それは“時間”がなければモノは存在しないということ。モノは時間の内にある。それでは、もしモノのまったく無い完全なからっぽの世界がある、としたらそこには時間というものがあるのだろうか。逆にモノが存在して初めて時間が生まれると言い換えることができるかもしれない。

 ようやく本題の写真のことに近づいてきた。

 モノとは存在の持続だと仮定した場合、たとえば存在が持続することを止めたとき、そのモノはどうなるのか。もちろんモノでなくなる。文字どおり「無」となる。それでは存在が持続することを中断したときは‥‥。 そんなことがあるかって? それがあるのです、厳密な意味ではないにしろ。ここがポイント。写真。 写真とは存在の持続の“中断”を強制的におこなうことである。
 絶えず動き、流れ、変化していくモノに神からの一撃にも等しい“中断”を与えること、そのモノの持つ時間を断ち切ること、そうすることでモノは時間の流れの中で隠されていた存在の神秘、原初の輝きをとりもどす。人間によって、一方的に名づけられ意味を付加され、時間の流れに漂っていたモノが本来の無垢な姿の一端を現す。私はこれを物質的恍惚と呼んでいる。物質的恍惚は私に不安をもたらす。それは美でもない醜でもない、快でもない不快でもない根源的な不安。
 写真の魅力はひたすらここにあると思う。根源的な不安にであうこと、存在の神秘の一端に触れること、そしてそれを契機に世界の見方を学ぶこと。

 優れた写真は人の眼を鍛えてくれる。無垢な姿を見るには無垢な眼を持たなければいけない。先入観を捨て、眼をこらし、耳をそばだてて静かに対峙しなければいけない。

 梅錦の写真コレクションには優れた写真がいっぱいあります。私たちはダテやスイキョウで写真を選び、集めたわけではありません。そのつもりでやってきました。
 アジェのマネキンを見て欲しい。ウェストンのペッパーを見て欲しい。森山大道の馬を見て欲しい。あなたの魂に届く写真が見つかればいいと思います。

注)“物質的恍惚”という言葉は私の造語ではありません。フランスの文学者、思想家ル・クレジオの「L’EXTASE MATERIELLE 」(1967 ガリマール出版)より拝借いたしました。

【補考】 

 前回のエッセー、「確信犯」の“気”あるいは“気配”に引き続き、良い写真の条件として今回は“物質的恍惚”を挙げたわけだが、ここでちょっと気がついたことがある。それは、はからずも気あるいは気配は空間的であるのに対し、物質あるいはモノはきわめて時間的な属性が強いということ。
 それにもうひとつ、“気”と“物質的恍惚”だけが良い写真の条件ではない。あくまでも良い写真の条件のひとつのファクターにすぎないこと。でもとても大事なファクターだと思っている。
近日中に「気と物質的恍惚」(仮題)という展示をスペース遊で開催する予定にしています。準備ができましたらまたお知らせいたします。
 ‥‥しかし今回は年甲斐もなくリキがはいってしまった。お恥ずかしい。

 2008.4 (ジャッキー天野)


■『Iyoの風マガジン』は愛媛”伊予”の梅錦より発信しています。