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ギャラリースペースゆう
いよの風通信 エッセイ
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写真の愉しみ Vol.4
 「ジャコメリの少年」

 先日、梅錦のギャラリー「スペースゆう」で、友人のご夫妻と一緒に写真の展示を見ていたときのこと、ある写真の前で奥さんがポツリと「かわいい」とつぶやいた。その写真の方を見てみるとそれはマリオ・ジャコメリの「SCANNO」という写真だった。その奥さんが「かわいい」と思ったのは多分、写真のちょうど中央に写っている、石畳の上を歩いてくる少年のことをさしているのだろう。ポケットに手をつっこんでフワリと宙に浮いたような少年はどこか不思議で不気味な感じはしても、私にはとても「かわいい」という感情はわいてこない。そのときは「フーン」と思っただけだったのだが、その言葉が少し意外だったので妙に心に残っていた。
その後今度は、とあるギャラリーで別の女性が、韓国李朝の古い神像を見て、神様が乗っている驢馬のような動物を「かわいい」と言っているのを聞いた。なるほどこれも「かわいい」のか。神様の乗り物でさえもその意味性を剥ぎ取ってしまい、たんなる動物として「かわいい」と表現してしまうラディカルさに私はすっかり感動してしまった。「かわいい」という一言が、神様の乗り物すなわち神聖、敬虔という、私の脳の中にある凝り固まった思考回路を木っ端微塵にしてしまったのだ。
これは偏見かもしれないが、女性は「かわいい」という言葉をよく使う。とくに若い女性、女の子はやたら「かわいい」を連発する。最近まで私にはどうもそれが耳障りで、軽蔑さえしていた。しかし今初めて「かわいい」という言葉に込められた意味の重要性に気がつくようになった。
「かわいい」には弱者への共感や、命に対する謙虚な気持ち、人や物へのいとおしさなどが込められているのではないだろうかと。
人は自分より弱いもの小さいものには「かわいい」と言うことがあっても、強いもの大きいものには決して「かわいい」とは言わないだろう。そこには自分のポジションをしっかり把握して、その上下を計るまなざしが必要になってくる。自我が目覚め始める子供や、大人になりかける頃の少女が「かわいい」を連発するのにはわけがあるのだ。それはたぶん現在の不安定な自分のポジションを見極め、ひとつずつ秩序を作り上げていくための発語となっているからだろう。
「かわいい」は弱いものへの愛、いとおしさだとすれば、その「かわいい」という言葉が連発されている限り、日本もまだまだ大丈夫だという気持ちになってくる。
ペットも服も隣のおばあちゃんもキャラクターグッズも全部ひっくるめて「かわいい」と言い切ってしまえる感覚は悪くない。
大事なことはフラジャイルなものに目を向けて、救い上げることだ。
私はというと、どうもこの頃「かわいい」と言うことが少なくなっている。困ったことだ。
 あー、また話が脱線してしまっている。写真のことを書く予定だったのだ。ごめんなさい。例のジャコメリの少年、あなたは「かわいい」と思えますか。残念ながらまだ私には‥‥。
いつかはすべての存在が「かわいい」と思えるようになりますように

 2007.5  (ジャッキー天野)


■『Iyoの風マガジン』は愛媛”伊予”の梅錦より発信しています。